一:韓という呼称は二つの意味を持ち、大きいものを指すときは、もともとあった九つの国、即ち霍、陶、飛、韓、瑜、隴、汝、紅、董を合わせて指し、即ち韓の高祖がこれらを平定したものを呼ぶ。九国の号に州をつけてその地方を指して呼ぶこともある。

二:韓始三百九十年に黒清衆の乱が起こり、韓始三百九十六年の霍北袁協の変に対し群雄が立ち上がったが、これを治めた後、韓を顧みずに覇を争い割拠した。群雄たちを打ち破り、その勢が拮抗し始めた瑜の文王、飛の恭王、紅の威王の三者に対し、韓始四百四十年に思帝は「三国が協和せよ」と勅し、瑜が霍、陶、韓、瑜、汝の五国を、紅が紅、董の二国を、飛が飛の国を治める事とした。隴は三国の争いを仲裁する役目を担うこととなり、翼鬼公がそれに当った。

三:霍、倝河の西也。李原、北信、晋陵、開昌、常原、淵丘の六郡。
霍の北には丘卑という胡人が住み騎射を得意とし、霍と陶を脅かした。長は曰く涼王の後と。九国の雄、霍の威王がこれらを服従させ、李門、金山、蛇延、霊門の四郡を置き、羊毛、馬、魚醤、金銀を朝貢させた。これ以降霍人は丘卑と共に暮らし大乱は無いが、丘卑は定住しない部族も多く李原郡、北信郡まで広くに住んでおり、村や城を襲いものを奪うことがある。

四:韓、倝河の東也。倝陽、楽平、燕山、望海、海隆、涼原の六郡。
倝陽、韓の都なり。
涼原郡の広々とした高原地帯にはかつて羑という羊を飼う胡人が住み着き、海隆郡、望海郡まで広く住んでいた、しかし羑族は大人しく韓人と諍いを起こすことはまれだった。武帝は何魏斗からやってきた者達を此処に住ませた。両者の間の諍いは少なく幾代にも渡り良く交わり、今では海烏と呼ばれ両者の区別をつけることはできない。

五:陶、永水の内也。永西、永中の二つの郡がある。

六:瑜は淵安、館昌、珠の三郡を置く。
淵安、瑜の都なり。
珠郡では塩や金、鉄が取れるため、膂力に自信のある者達が集まった。徳教の経書では三日に一度、身を洗うとしていたが、温泉が湧く珠郡では鉱夫や樵夫が毎日これに入った。隴国でもそれは同様であった。

七:霍、韓、陶、瑜を合わせて中原と呼ぶ。九国より昔にあった涼そして虞が治めていた。

八:飛は韓の南西に位置する。山春、周中、寿丘、周陰、碧海の五郡を置く。
飛の厘王は南西の海と山の間にすむ南隙族を平定し、さらに烏斯、開南、石武の三郡を置いた。

九:隴は鍾陰、鍾陽、呉章の三郡を置く。鉄の加工が盛んであり、白酒が盛んに作られる。三雄春秋の時に州牧の霍承が智者を募り学問を奨励し、隴公朱麗月も同じくこれを続けたため多くの者が諸学を修めている。
鍾陰、隴の都なり。鍾陰郡、西北に華山有り、寿丘との間に華底関有り、西に盧湖有り、倝河の源なり、南に隴山あり、臨山県、華底関の東。
鍾陽郡、西に隋水有り。寿丘との間に隘路の隋津あり。隴国の南に𢑆海あり、島々には島邪族が住む。
呉章の東、呉水あり。止蛟石、呉水の奇岩なり。

十:汝は爽高、下爽、杜丘の三郡を置く。九雄の汝国は太陵郡も収めていたが、三雄春秋の時に紅主がこれを支配したため、現在は紅州に属する。汝と紅を別ける川は江、延江。

十一:紅は太陵、夏、楚中、趙丘、安都、寧原、臨弧の六郡を置く。安都、紅の都なり。紅北、紅水の北、夏、安都郡。紅南、趙丘郡。江西、太陵郡。江東、寧原郡。
太陵郡、沙陽県は呉水の東なり。

十三:董は徐安、蘭京、湖安、天路の四郡を置く。蘭京の東、亜水を越えれば亞世羅尉なり。

十四:亞世羅尉は董の南東の夷荻で、蘭京の東の亞水を越えた先に住む。肌浅黒く容貌は短小である。亞南は乾いた草原が広がり、そこに住む者たちは男女ともに馬に乗り乾いた土地を羊を飼う。亞北の盆地に住む者は農作をしている。董の地に侵入してくることもあるが、馬に乗り小さい弓を引く彼らは開けた地での戦が強く蘭京や湖安の支配をいつも脅かした。しかし急峻な地での戦いには優れず、山岳で盾を並べ弩を放つ董人兵を抜いてそれより奥には進めなかった。古くは、董の翼王が策を巡らせ、彼らを吸収しながら攻め入った為、一度はこれを服従させた。九国の覇者となる寸前であった飛の勢力拡大が江東にまで及ぶと支配下を逃れ、韓の高祖の時代になると蘭京から湖安まで跋扈したが武帝が彼らを大いに打ち破り、さらに亞水を越えて攻め込み七郡を置いたが中原の乱に乗じて韓を離れた。

十五:沙羅尼は更に遠い東の国からの交易品を韓に持ち運ぶ。かつては道教のように数多の神仙を崇めているのが普通であり、百余国がその地にあった。韓の世が始まった頃、沙羅尼のなかの大国である文禰南の文覇魔とよばれる王が世界には唯一つの鬼神しか存在しないと言い、これを口実に逆らう諸国を攻めて回り苛烈な殺戮の末にこれらを統一し、圧制を敷いた。武帝は亞世羅尉まで攻め入ってくるようになった彼らを撃ち、その王を殺したが、沙羅尼の民に徳教を修めさせる事は出来ず、次第に韓を離れた。男は石を容易く斬る大きく曲がった刀を持ち、また亞世羅尉の民の様に短い弓を馬の上で引く。嘗ては女人も業を起こしていたが、今では黒い服を着せられ家の中に閉じ込められている。

十六:何魏斗は酷く寒い平原が広がるばかりで、僅かに茂る草を求める羊たちを馬に乗って追う。薄い色の美しい髪を持ち、瞳は碧く眩ゆい光を放ち、肌は白く容貌は皆魁偉である。長い髪を頂点のみに残し、後は剃り上げており、誰もが文身している。急峻な地を通ってしか董に至ることが出来ないが、韓の高祖の時代には戦乱に付け込み天路から臨弧まで広く跋扈した。酪酒を韓に持ち込んだのは彼らである。何魏斗の馬はどれも壮健で千里を休まず走るという。武帝が董を平定すると彼らの使者から酪酒や馬を受け取り大いに喜び親交を誓った、また武帝は何魏斗の男子を寵愛し、江陽に幾人も住まわせた。これを機に韓に移住するものがたびたび現れた。射御に優れる彼らは狩猟や牧畜、行商や傭兵などで生計を立てた。何魏斗の駿馬だけでなく中原の馬もこれを易々と御し、険しい道でも走り抜けるという。みな好奇心旺盛でもともと道に近い教えに従っていた彼らは韓の民の間の神仙信仰を取り入れ、独特の道徳観を持つ。彼らは、死を迎えるとその霊魂は天馬に乗って空を翔けると信じている、また星一つ一つが神であると信じているという。武帝の時代に移住したものは良く韓の地に馴染んだが、生業がうまくいかなかったものは賊となり村から金品と穀物を奪い、男を殺し女を犯した。韓西汝北、江西董北に多く住んでおり、それぞれ海烏、越空とよばれている。

戻る